知識の普及
リトアニアにおける初期の日本の描写
リトアニアにおける初期の日本の描写
ベネディクタス・ティシュケヴィチュス、ユゼフ・ピウスツキ・、マタス・シャルチュスはリトアニア初の旅人として、日本を訪れ、19世紀当時の日本の印象を伝えた人々です。しかし、このような旅人はごくわずかしかいませんでした。19世紀と20世紀前半のリトアニアの人々にとって、様々な国を巡るのは難しいことだったのです。それゆえ、日本のような遠方の国については、新聞が主な情報源だったのでしょう。 1891年以降、リトアニアの報道機関では日本について多様な出版物が存在していましたが、その大多数のニュースや記事は海外のニュースサービスや出版物を翻訳したものでした。その結果、極端に一般化されたエキゾチックな日本というイメージが定期刊行物の中では紹介されていました。しかし、リトアニアの宣教師たちが日本で宣教活動を行なっているという記事が出て以降、その状況に変化が訪れます。日本で暮らした宣教師の中でも最も活動的だったのがアルビナス・マルゲヴィチュスでした。詳しくはこちらをご覧ください
1980年以降のリトアニアにおける日本に関する知識
1980年以降のリトアニアにおける日本に関する知識
20世紀にはステポナス・カイリースやマタス・シャルチュスといった執筆家たちが日本に関する論文を発表していましたが、1940年のソ連占領によりリトアニアにおける日本学は中断されることとなりました。リトアニア・ソビエト社会主義共和国(LSSR)時代には、日本関連の研究は許されていませんでした。しかし、1990年の独立直前から、日本への関心と憧れの大きな波が押し寄せます。この波は、リトアニア人研究者たちに存在感を与え、日本に関する専門的知識を発展・普及させていきました。詳しくはこちらをご覧ください
日本でのリトアニア:人々と本
日本でのリトアニア:人々と本
おそらくリトアニアの人々は日本のことを知っているでしょう。しかし、30年前に地図に現れた国であるリトアニアについては日本では長い間よく知られていませんでした。幸運にも、杉原千畝の「命のビザ」がこの2カ国をつなぎ、リトアニアでの関心を高める要因になりました。ここ数十年、リトアニアはフルクサスの作品、映画や音楽、展示にイベントなどを通じて自国の文化を紹介する機会を多く持つようになりました。詳しくはこちらをご覧ください
日本文学の翻訳
日本文学の翻訳
翻訳された日本文学は、リトアニアで日本の文化を学ぶ非常に重要な方法の一つでした。20世紀初めにフィクションの翻訳が登場してから、1960年代からより多くの翻訳者がたくさんの文章を翻訳しました。当初はリトアニアで日本語を知るリトアニア人はいなかったため、翻訳者は日本文学を主にロシア語など、他の言語を介して翻訳をしていました。しかし、次第に日本語を理解する新しい世代の翻訳者が増えていきました。アルヴィダス・アリシャウスカスがこの世代の初代を代表する人物です。 21世紀になる頃には、リトアニアで日本語から文学を翻訳する翻訳者は増えていました。彼らの活動により、古典・現代作家はリトアニアの声を得ることができました。詳しくはこちらをご覧ください
教育・研究・スポーツ
教育・研究・スポーツ
日本とリトアニアは、文化や書籍、国際サミットを通じてだけでなく、異なる年齢層での青少年交流が発展しており、互いについて知る機会が複数存在しています。こうした交流は、学校、団体、大学同士を結びつけ、対面し、コミュニケーションをとり、互いを直接理解し合えるようにしています。リトアニアの子どもたち、若者たち、研究者たちは、さまざまな形で教育や研究を行い、日本に親しみを持っています。また、日本人も同じようにリトアニアについて知る機会があります。2019年から2022年まで続いたパンデミックにより、直接的なコミュニケーションをもつ機会は減ってしまったものの、教育と科学はこうした障壁を乗り越えていきます。二国間の協力において最も重要な方法の一つなのです。詳しくはこちらをご覧ください