リトアニアにおける初期の日本の描写
ベネディクタス・ティシュケヴィチュス、ユゼフ・ピウスツキ・、マタス・シャルチュスはリトアニア初の旅人として、日本を訪れ、19世紀当時の日本の印象を伝えた人々です。しかし、このような旅人はごくわずかしかいませんでした。19世紀と20世紀前半のリトアニアの人々にとって、様々な国を巡るのは難しいことだったのです。それゆえ、日本のような遠方の国については、新聞が主な情報源だったのでしょう。
1891年以降、リトアニアの報道機関では日本について多様な出版物が存在していましたが、その大多数のニュースや記事は海外のニュースサービスや出版物を翻訳したものでした。その結果、極端に一般化されたエキゾチックな日本というイメージが定期刊行物の中では紹介されていました。しかし、リトアニアの宣教師たちが日本で宣教活動を行なっているという記事が出て以降、その状況に変化が訪れます。日本で暮らした宣教師の中でも最も活動的だったのがアルビナス・マルゲヴィチュスでした。
(リトアニア国立図書館所蔵)
リトアニアの紙面での日本
リトアニアの新聞は国内で1864年から禁止されていました。そのため、リトアニア・ディアスポラの定期刊行物が、この時代では重要な役割を果たしていました。1897年から1940年にかけて、アメリカでは82もの新聞や雑誌がリトアニア語で発行されました。
(日本での大地震に関する新聞記事 "Žemaičių ir Lietuvos apžvalga", 1892, no. 2, p. 136)
日本に関するリトアニア語の記事で最初に知られたのは1891年に発行されたものです。しかし、日本にについてリトアニア語で定期的に書かれるようになるのは、リトアニアの報道機関が正式に解禁された1904年になってからのことでした。1918年のリトアニア独立宣言後、リテラシーの発達に伴い新聞や雑誌の人気を伸ばしはじめます。たとえば、165種類もの定期刊行物があり、そのうち136がリトアニア語によるものでした。1918年から1940年の間に25の出版物の中に日本に関する情報が少なくとも一度は含まれていたことが研究で示されています。
日本に関するリトアニア最初の記事
宣教師たちの書物
イエズス会とサレジオ会(SDB、Salesians of Don Bosco)、この二つは異なる二つの宣教師の団体でした。どちらの団体も宣教を非常に重要視していました。特別な訓練を受けた後、宣教師たちは日本などのキリスト教がまだ広まっていない国へと赴きました。この宣教師たちは、長年日本に暮らした最初のリトアニア人となりました。その結果、彼らの残した文章はリトアニア語で日本について書かれた貴重な情報源となったのです。
宣教師たちの文章の中で、中国やインドと同じく日本は文化的な国と呼ばれていました。しかし、日本を紹介し、近代化が進んでいることを褒め称えながらも、国内の宗教事情に対して遺憾に思うケースも多くありました。
(「Misijos」と「Saleziečių žinios」各号より)
イエズス会
サレジオ会
サレジオ会会報
アルビナス・マルゲヴィチュス
有美野 仁
A・マルケヴィチュスは1933年から1988年まで日本で暮らし、日本に関する多くの文章を残しています。マルケヴィチュスは言語や文化という点でリトアニアと日本が大きく異なるということを認めていました。それでも、彼は日本に留まる意義を見出し、亡くなるまで日本で暮らしました。リトアニア出身で唯一日本で国籍を取得した(1971年)人物で、自叙伝である『ワタシは日本人』を1983年に日本語で出版しました。一方で、彼はリトアニアの出自であることを否定的には捉えていませんでした。1983年にトロントで発行されている新聞『祖国の光』のインタビュー内で、マルケヴィチュスは完璧なリトアニア語を披露しています。
A・マルケヴィチュスは中立的な価値観を示し、当時広がっていたエキゾチックな日本というイメージには惹かれていませんでした。また、日本と短期間しか関わっていないにもかかわらず日本通ぶる人々を冷やかすこともありました。彼の批判の矛先は、とりわけ、降伏後の日本に駐留するアメリカ軍に対する向けられていました。
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アルビナスの父親はサンクトペテルブルグで学んだ医師で、母親は農家出身。
(2021年の Aurelijus Zykas) -
プロギムナジウム(中等教育機関)で4学年を修了した後、アルビナスはサレジオ会の会員になるために、1929年にイタリアへ留学。
("Saleziečių žinios", 1929, no. 5, p. 148)
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アルビナスはキリスト教があまり知られていない地域で活動を続けることを決心。日本はサレジオ会の宣教が始まってからわずか7年しか経っていなかったため、アルビナスは日本行きを任命されます。
1933年11月、宮崎に到着。東南アジアを経由した1か月もの長旅の末、上海の港へたどり着き、そこから長崎、さらに宮崎へ渡る。
("Saleziečių žinios", 1936, no. 2, p. 44)
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東京では積極的に社会活動を開始。具体的な活動内容は本の展覧会開催の手伝いや、様々な新聞社へ手紙を書くなど。A・マルケヴィチュスの記事がリトアニアの定期刊行物や『サレジオ会会報』に掲載。また、リトアニアディアスポラの出版物にも彼の文章が登場。
("Saleziečių žinios")
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1942年3月に卒業。
("Saleziečių žinios")
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日本の国籍法は非常に厳しいため、これを成し遂げたのは驚くべきことでした。日本国籍取得後、A・マルケヴィチュスは有美野 仁(あるびの じん/ひとし)という日本名を使うようになりました。
1971年4月、川崎のサレジオ中学の副校長に任命。
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遺骨はカトリック府中墓地内のサレジオ会共同墓地に埋葬。
逝去一年前、1987年8月15日、自叙伝『ワタシは日本人』を日本で出版。
(自叙伝の表紙)
書誌情報
- Juknevičius, K. 2000. Lietuvių saleziečių istorija. Kaunas: Orientas.
- Kamaitis, D. Tėvo Albino pėdomis. ambasadoriai.eu/tevo-albino-pedomis/
- Railienė, Birutė. 2012. Pirmosios žinios apie Japoniją lietuviškoje spaudoje. Stepono Kairio trilogija (1906 m.). Rytų Azijos studijos Lietuvoje (sud. Aurelijus Zykas). Kaunas: Vytauto Didžiojo Universiteto leidykla, p. 93-102.
- Visockytė, E. 2014. Image of Japan in Lithuania: Analysis of Lithuanian Newspapers 1918 – 1940. VDU, magistro darbas.
- Urbonas, V., 1995. Lietuvių periodinė spauda. Vilnius: Voruta.
- Urbonas, V., 2002. Lietuvos žurnalistikos istorija. Klaipėda: Klaipėdos universiteto leidykla.