戦間期のリトアニア・日本の関係
リトアニアと日本の双方が合意できる二カ国間の条約が整ったのは、20世紀になって20年以上が経った頃のことでした。1918年のリトアニア独立宣言が主な要因ではあるものの、日本も国際的な関係性の構築や影響力の拡大に意欲的な時期でした。地理的な理由もあり、リトアニアと日本の協力関係は、戦間期中はさほど緊密でも活発でもありませんでした。しかし、二カ国間で現代的な民主主義的関係の基礎を築いたという点では、興味深い例となりました。
(リトアニアを訪問した国際連盟事務局の杉村陽太郎次長、1930年、写真:「Albumas Vytauto Didžiojo mirties 500 metų sukaktuvėms paminėti」, Kaunas, 1933年)
外交関係の樹立
1918年2月16日のリトアニア独立宣言のニュースはすぐに日本にも伝えられ、3月に初めて日本の紙面にその記事が掲載されました。1919年、日本政府はリトアニアの独立を事実上容認しており、省庁の刊行物の中でもそれについて言及するようになりました。
(日本によるリトアニア独立宣言、写真: 外務省外交史料館、K. Jakubsonas)
国際協定
戦間期、リトアニアと日本は、ビザ免除の確約と貿易・海事協定の2つの二国間協定を締結しました。こうした協定書で、よりオープンで自由な経済協力を可能が可能になったものの、地理的距離と国際的緊張状態が原因となり、協力関係の発展はむしろ遅れ、関係の拡大には至りませんでした。また、この2つの協定に加え、両国は国家間の繋がりを向上させるべく、幅広い交渉に関与していました。
(「Lietuvos žinios」, 1925年12月15日)
ビザ免除の確約と貿易・海事協定
1929年2月、リトアニアと日本はビザ免除の取り決めを結び、より自由な移動が保証されるようになりました。その1年後の1930年5月2日には、貿易・海事協定の文書で、二国間の緊密な関係がより強化されました。この協定により、互いの国民の自由な移動を確保し、長期滞在の権利、貿易、財産の取得、現地市民と同等の機会を与えることが約束されました。また、船舶に対する港の開放と公正な関税の適用、互いの領土に領事館を設置し、公式な代表を任命することも取り決められました。
欧州・アジア間の鉄道による物資輸送に関する多国間交渉
同時にリトアニアは、欧州・アジア間の鉄道による物資輸送に関する多国間交渉という、野心的な協定の議論にも関わっていました。バルト三国、ソ連、中国、日本などの代表団がこの議論に加わりました。交渉は4年近く続き、様々な都市で会合が開かれました。そして、1931年の夏、東京で最終的な合意がなされました。最終合意の際には、リトアニアの代表として、鉄道に精通している運輸通信省のヨナス・アウグスタイティスが出席しました。興味深いのは、その1年後の1932年12月1日から17日にかけて、この協定書の改訂会議がカウナスで開かれ、日本側の代表も出席したという事実です。この会議で、協定を補足するための議定書が結ばれました。
(「Lietuvos žinios」、1932年12月5日)
鉄道接続交渉に関わった主な都市:
経済関係
前述の協定はリトアニアと日本の貿易に貢献したものの、経済関係が大きく発展するには至りませんでした。リトアニアでの日本製品の販売やリトアニア製品の日本輸出といった例はいくつか存在します。例えば、リトアニア産バターやクライペダを拠点とする肥料工場ユニオンの製品などが挙げられます。積極的に相互利益と貿易関係を拡大させようという取り組みが目立ってはいましたが、軍事衝突などの歴史的な状況から、発展することはありませんでした。
(新聞記事抜粋、「Lietuvos žinios」, 1932-1937年)
国の代表と訪問
貿易・海事に関する協定から、代表者の任命を行う流れとなり、まずリトアニアがその最初の機会を利用することになりました。1935年5月15日、当時、八坂商事会社を経営していた実業家の八坂雅二が東京の名誉領事に任命されました。日本との間の協定で、日本はカウナスに領事館の設置を認められていましたが、リトアニア側は歴史的な事情により東京に同じように設置することができませんでした。20世紀のこの頃は、政治的に非常に緊張していた時代であり、高官などの国家訪問を避けるようになっていのです。
(佐久間信・初代在ラトビア特命全権公使、カウナスのリトアニア大統領府の前 写真:国立チュルリョーニス美術館所蔵)
大使館
第二次世界大戦直前まで日本はリトアニアに直接駐在所を持っておらず、カウナスに領事館が置かれたのは1939年8月のことでした。この時代、最初で唯一の領事だったのが杉原千畝でした。杉原以前のバルト三国の情勢を追っていた日本大使館の代表者たちは、1929年からリガを訪れ、リトアニアと連絡を取り合っていました。リトアニアがカウナスに領事館を設置することを許可したのに合わせて、日本はリトアニアにも東京に駐在員事務所を設置する許可を出していましたが、歴史的に好ましくない状況だったこともあり、リトアニアが日本に駐在員事務所を置く機会を使うことはありませんでした。
(P.ダイリデー、リトアニア外務省に日本との代表交換協定の締結を報告, 1939年6月9日
リトアニア中央国立公文書館)
名誉領事
八坂雅二は、1886年5月10日、九州の島で鉱夫の家に生まれました。基礎教育を受けた後、外国に興味を持ち、独学で英語、ロシア語、朝鮮語を学びました。1904年に日露戦争に従軍し、その後、商社に就職、1919年にそれまでの経験を生かし、八坂商事会社を設立します。そして、1935年に在東京リトアニア名誉領事に任命されました。
(「Lietuvos žinios」、1935年10月4日)
(名誉領事からリトアニアに送られた文書の断片
リトアニア中央国立公文書館)
資料が不十分なため、リトアニアとのそれまでの関係が理由で八坂が名誉領事になったのか、リトアニアに対する功績で名誉領事になったのかははっきりとしていません。外務大臣が承認した書類には、その理由が記されていないのです。考えられるのは、八坂のロシアとの貿易関係が、リトアニアとのつながりの基礎となったのではないかということです。また、リトアニアと日本の関係を進めた八坂の施策についても、情報が不充分です。5年間の在任期間中、リトアニアに送った書簡数通がアーカイブから見つかってはいるものの、内容は主に日本の政治に関するものでした。1940年夏にリトアニアが併合された後、名誉領事館は閉鎖されました。
訪問
リトアニアと日本の高官が互いの国を訪れることはしばしばありましたが、大きな規模での代表団による公式訪問の情報はありませんでした。1931年に運輸通信省代表のヨナス・アウグスタイティスがビジネス目的で訪日、1936年に元農務大臣のミコラス・クルパヴィチュスが観光目的で東京を訪れる、などの例はありました。一方、日本人がカウナスを訪ずれる例は非常に限定的で、欧州在住の日本の代表や主に軍の関係者が主でした。
(「Lietuvos žinios」、1937年6月12日)
(リトアニアを訪問した国際連盟事務局の杉村陽太郎次長、1930年 写真:リトアニア中央国立公文書館所蔵)
書誌情報
- Albumas Vytauto Didžiojo mirties 500 metų sukaktuvėms paminėti (1933), Kaunas
- Lietuviškų laikraščių skaitmeniniai archyvai spauda.org ir e-paveldas.lt
- Masunaga, S. (2017). The Inter-War Japanese Military Intelligence Activities in the Baltic States: 1919-1940: 1919-1940