リトアニア・ソビエト社会主義共和国と日本の関係
リトアニアはソ連に占領された後、独自の外交政策を展開することができず、カウナスの外国領事館は閉鎖され、国際協定も打ち切られました。1940年9月初めに杉原千畝がカウナスから出発した後、リトアニアに日本の代表はいなくなりました。その結果、ソ連邦内のリトアニアと日本との関係は非常にゆっくりとしたものになりました。冷戦時代、日本はアメリカの同盟国であり、「対極にある資本主義の敵」であったから、これは当然と言えば当然です。
一方、ソ連時代には、リトアニアと日本の和解のエピソードをいくつか追跡することができ、ここでは、それらについて認識を高めることを試みます。最初の首脳会談、リトアニアと日本の代表団の訪問、公的・文化的交流、さらに広い意味では、リトアニアのディアスポラによる独立リトアニアのニュースを広める試みに注目すべきでありましょう。
(1988年、リトアニアを訪れた中曽根元首相 LCVA 0-103308)
天皇陛下と初めて握手したリトアニア人
1960年代に初めて行われた日ソ首脳会談には、リトアニアからの代表も含まれていました。当時は日ソ関係が発展しており、モスクワの共産党員とともに、ソ連各共和国の代表が参加していました。リトアニア最高会議議長ユスタス・パレツキスは、リトアニア政府高官の中で最も日本に行った人物です。1960年と1969年の2回来日しています。
(日本でのJ.パレツキス LCVA 0-061283)
東京への初めての訪問は1960年9月29日から10月7日にかけて行われた列国議会同盟に参加したリトアニアのジャーナリストであり政治家のパレツキスに関連します。パレツキスは他の参加者とも一緒に日本の国会を訪れ、また東京の皇居での歓迎会にも参加しました。歓迎会では、天皇の裕仁様は握手で客をもてなしました。
パレツキスは東京で数日間過ごし、当時のことを本に記しています。その本には政治的、経済的そして社会的状況と観光地について書かれていました。彼の日本に対する憧れと尊敬の意がはっきりと表れており、最後の文章には日本にまたいつか訪れたいという願望も記されています。
(天皇陛下との会見に臨むJ.パレツキス 「Kelionių knyga」, Vaga, 1969年)
パレッキスは1969年4月15日から24日にかけて再度東京を訪れており、その際はソ連の国々の最高議会幹部を務めました。彼は当時の首相であった佐藤栄作、愛知揆一外務大臣、国会議長、東京都知事、また訪問の最後には再び裕仁天皇に会いました。そこでは国際関係、そして日本とソ連の関係についての話し合いが真剣に行われました。
ソ連時代、リトアニア人で天皇陛下と親しく交流していたのはJ・パレッキス氏だけだったようです。1992年、ヴィタウタス・ランズベルギス氏と明仁天皇という、世代が大きく異なる代表者が再び同じようなレベルの会談を行ったのです。
(J.パレツキスと新潟市長 「Po pasaulį pasidairius」, Vaga, 1979年)
(日本でのJ.パレツキス LCVA 0-061282)
(J.パレツキスと新潟県知事 「Po pasaulį pasidairius」, Vaga, 1979年)
公共・文化的関係
リトアニアと日本の関係はお互いの好奇心と憧れによって深まっていきました。両国の情勢が安定し、ビザの取得が容易になった1960年代後半頃から、両国間の交流は活発になりました。ほとんどの場合、リトアニア人はソ連の代表者のグループとして日本を訪れており、当時個人的な旅行として訪れる人は多くはありませんでした。一方で、日本からの訪問者はソ連経由の旅行ツアーを利用しリトアニアを訪れていました。しかし、カウナスへ向かったチュルリョーニスの専門家である加藤一郎などの例外も一部ありました。
(日本の音楽バンドがリトアニアを訪問したというニュースの一部、1962年6月)
ジャーナリストであり旅行家であるマイコラス・ルイベッキスはおそらく早期の様子を最も鮮明に捉えた人物と言えるでしょう。彼は1959年に日本を訪れ、1960年に多数の写真を含む「黄色い海を渡れ」(リトアニア語で“Anapus geltonosios jūros”)を出版しました。同年に作家であるアレクサンドラス・グダイティス・グゼヴィチウスは、春に東京や他の都市を訪れています。1961年には大阪万博にてリトアニアの民芸作家による作品が展示されました。もちろん、東京オリンピックではより大きな注目を集めました。16人ものリトアニア人選手が参加し、1964年には日本を訪れたスポーツの記者たちがこの詳細の記事を出版したのです。
この頃には音楽との関わりも盛んに行われました。工藤誠一郎率いる日本のジャズバンドは1963年にヴィリニュスでコンサートを開催、また1965年の5月中旬にはグループ「日本のうたごえ」もヴィリニュスを訪れました。さらには日本のカルテットである「ロイヤルナイツ」もリトアニアでコンサートを開き、それがロシア語を含むものであったため、ソビエト社会主義共和国連邦にて大きな人気を博しました。
1970年代は大阪での万国博覧会から始まりました。リトアニアを代表するステンドグラスや建築物、絵画が展示されました。同時期にはリトアニア人作家であるチュルリョーニスの世界観に高い関心を持つ愛好家のグループが集結して、カウナスを訪問しました。1975年の9月には、「宝塚からの少女たち」と題したミュージカルがヴィリニュスにて上演されました。
(「Švyturys」、R.ネイマンタス所蔵)
ソ連による占領が終了する最後の10年も活発でした。1982年の9月から11月にかけてソビエト社会主義共和国連邦の日に、リトアニアの伝統的な絵画、現代的グラフィック、そして写真が日本の7つの都市で展示されました。アンサンブル「リトアニア」も同じくツアーを行いました。似たようなイベントが1989年5月7日から14日にかけても繰り返し行われました。同年にはリトアニアのおとぎ話「白鳥。王様の妻」(リトアニア語で“Gulbė karaliaus pati”)が日本語で出版されました。リトアニアの小規模のオーケストラは9月に東京、大阪、京都、名古屋などで11つのコンサートを開催しました。
(「Tiesa」、「Knygnešys」、R.ネイマンタス所蔵)
日本からの訪問者
リトアニアはソ連時代に何度か日本からの賓客を受け入れました。その大半は、先に述べたコンサートなど、文化的な意図をもった訪問でした。しかし、ビリニュスやカウナスなどを訪れた大規模な使節団も何度かありました。その中には、ソ連の生活を描こうとしたジャーナリストや、左翼団体の代表者なども含まれていたことは特筆に値しました。
(1988年、リトアニアを訪れた中曽根元首相 LCVA 0-103321)
ジャーナリスト
ソ連の時代、日本人はリトアニアについての情報を新聞の一部記事から得ることができていました。リトアニアという言葉は、カウナスの杉原千畝に関する記事(最初の記事は1968年に登場)の中で登場し、1972年、当時高校生であったリトアニア人、ロマス・カランタの焼身自殺によって始まったソ連に対する政治的プロテストについては国際的に大きな注目を集めました。
ほとんどの場合、情報はモスクワに住む日本人ジャーナリストによって出版されていました。しかし、中には日本から直接訪れた特派員代表団もいました。例えば、通信社である日本電波ニュースは1970年、1979年、1982年にリトアニアへの訪問を計画しました。朝日新聞の記者は1988年10月のリトアニアの変化に興味を持っていました。翌年9月には日本テレビチームがヴィリニュスから直接衛星放送を行いました。最新の技術が、このヴィリニュス市庁舎広場から日本人観客への直接衛星放送を初めて実現させたのです。
左翼団体
労働組合はリトアニアに初めて接触した団体の一つだったようで、1968年の終わりにリトアニアへ初めての訪問を計画しました。
(1968年の訪問 LCVA 0-041680)
社会民主党の代表はリトアニアを1978年、1979年、1981年、1982年に1回ずつ、また1986年には2回と、合計6回にわたって訪れています。リトアニアの最高幹部が来賓を迎え入れ、日本代表団はリトアニアの各地を訪れました。
(1978年の訪問 リトアニア中央国家文書館所蔵)
日本とソ連の連合それぞれの信者は独立していなかったのですが、リトアニア代表団が日本を訪れた際、またロシアと日本語の通訳を見つけるのにはとても便利でした。この連合メンバーはリトアニアが日本でのイベントにて、ソビエト社会主義共和国連邦を代表する準備をしていた1982年の夏にリトアニアを訪れました。衆議院のメンバーの一員、かつ副代表でもあった横山利秋は今回の訪問を率いました。他の訪問は1984年に行われました。
(1984年の訪問 リトアニア中央国家文書館所蔵)
大使と総理大臣
この時期の日本人外交官による訪問は1967年11月の当時の駐ソ連日本大使であった中川融によるもの、また1978年総領事の勝又貞夫の2回のみでした。
(中川大使、1967年、ヴィリニュス リトアニア中央国家文書館所蔵)
また、中曽根康弘元首相(在任1982〜1987年)が日本代表団の団長を務め、1988年7月にリトアニアを訪問していました。この代表団には、衆議院議員藤波孝夫、参議院議員檜垣徳太郎が参加しました。
中曽根康弘のソ連訪問は、まず紛争地域問題に関連していました。中曽根はモスクワでゴルバチョフに会い、自分の主張と提言を述べました。もうひとつは、リトアニアへの訪問を含む観光でした。首相はビリニュス、カウナス、ルムシシュケの野外博物館などに滞在しました。
(リトアニア中央国家文書館所蔵)
ディアスポラの貢献
制限下にありながらも、リトアニアのディアスポラは日本との関係を築き上げました。1950年からアメリカに住んでいた有名な戦時中の外交官であるヴァクロヴァス・シジカウスカスは1966年の11月の数日間を日本で過ごしました。ラジオ、新聞記者の取材を受けた際には、リトアニアの独立に対する強い熱意を伝えていました。訪問の間、デュキカウカスはもう1人のリトアニアと日本を繋ぐ人物、東京のカナダ大使館で働いていた、ヴィータウタス・メイラスとも出会いました。
(V.シジカウスカスとS。ロゾライチス、1961年 © Vytautas Maželis)
その他にも日本とのつながりを持っていたリトアニアのディアスポラを代表する人は多数存在しました。オーストラリアのジャーナリストであるアンタナス・ラウカイティス、著者であるアルギーダス・グスタイティス、そしてアメリカのインディアナ大学の日本研究の教授ジューギス・サウリス・エリソナス、さらにカナダからのエンジニア、コスタス・アストラヴァスにジャーナリストのリウダス・スタンケヴィチウスなどが挙げられます。
その他に日本のアメリカの軍隊で1年以上を過ごしたリトアニア人もいました。1967年から1971年の間、東京のアメリカ中央情報局に勤めていたブロニウス・ミチェレヴィチウスがそのうちの1人であり、そこでソ連に関する情報を集めていました。
(日本でのB.ミチェレヴィチウス ヴィタウタス・マグヌス戦争博物館所蔵)
書誌情報
- Eidintas, A. (2017). Trijose žvalgybose. Mokslo ir enciklopedijų leidybos centras
- Romualdo Neimanto kolekcija, VDU
- Paleckis, J. (1969). Kelionių knyga. Vaga
- Paleckis, J. (1979). Po pasaulį pasidairius. Vaga