サムライはリトアニアと出会う

リトアニア最初の日本人

日本もリトアニアも中世以降、独自の国家を持っていましたが、リトアニア大公国と日本との間にやりとりがあった痕跡は見つかっていません。一方、徳川幕府の下、1601年に日本は世界から孤立し、基本的には欧州諸国との接触が途絶えていました。その長い間、外の世界に関する知識は制限された状態にありました。オランダ商人たちは、書物の不法な持ち込みや、各々が旅人として個人的なやりとりの中で伝える話などを通じて、日本に外の世界の知識を広めていきました。リトアニアがその話の中で初めて言及されたのは1792年のことでした。

(the page from Y. Fukuzawa diary where Kaunas in mentioned in 1862; Y. Fukuzawa Research Centre / Kristijonas Jakubsonas)

日本人がリトアニアの領土を訪れたことが記録に残っているのは、リトアニアが独立国家として存在しなくなった19世紀後半からのことでした。当時のリトアニアはロシア帝国の一部でした。日本の開国は非常にゆっくりとした歩みで行われていきました。1862年に日本が初めて遣欧使節を派遣し、その際に使節団がリトアニアを訪れています。当然、リトアニアを目指して来たわけではなく、彼らが訪れるベルリンとサンクトペテルブルグを結ぶ途中の地点にあったためでした。その後、有名な岩倉使節団がリトアニアを通り、さらにはあの風変わりな福島少佐も馬でリトアニアを訪れました。

このような日本人によるリトアニア訪問は、1904年の日露戦争勃発により途絶えました。

日本におけるリトアニアに関する最初の記述

日本では『北槎聞略』の中でリトアニアが言及されています。『北槎聞略』とは1792年、将軍の命により桂川甫周が書いたロシアに関する書物のことです。

その中の一枚の地図に、当時のロシアの領土とその隣国であるリツワニア(リトアニア)が描かれています。当時はまだかろうじてリトアニア大公国という独立国家として存在していました。そして、リトアニアの西側にはポリニア(ポーランド)が描かれています。やがて、リトアニアという名は日本の地図のみならず、100年以上にわたってあらゆる地図の上から消えていくのでした。

(Lithuania in a map from 1795; National Archives in Japan / Digital Archive)

文久遣欧使節

リトアニア人と日本人の歴史上初めての交流は1862年のことです。日本は文久遣欧使節として知られる欧州への最初の使節団を派遣しました。30名以上の日本の知識人が選ばれ、インド洋と地中海を横断する厳しい旅路を経て、なんとかヨーロッパに到着しました。使節たちはフランス、イギリス、オランダ、ドイツ、ロシア、ポルトガルを訪れました。着物や刀を身につけた日本人の団体は、欧州各国で大きな関心を呼びました。

(members of the mission; Nadaro / Y. Fukuzawa Research Centre)

1862年9月18日、サンクトペテルブルグからベルリンに向かう使節団はカウナスに到着しました。ほんの短い時間ではありましたが、リトアニアにおいては非常に重要な出来事でした。日本の知識人たちがこの地で数時間過ごし、後にその時の見聞を手記や旅の記録に書き残しました。

(Japanese delegation meeting Napoleon III in France; Gustave Janet / Collections du château de Versailles)

17世紀より、日本は鎖国状態にあり、外の世界との接触は実質的に皆無という状態でした。しかし、19世紀の中頃になると、欧米の船が来航し、開国を迫られるようになりました。日本は、歴史上最も苦しいジレンマに直面した末に、西洋についてより学ぶことを選んだのでした。その結果として、複数の使節団が組織されました。1860年に最初の使節団がアメリカへ、1862年には2番目の使節団がヨーロッパへと派遣されたのです。

文久使節団の当面の目的は、大国の君主たちと会合し、より有利な条件での開国について交渉を行うことでしたが、日本人にとってヨーロッパ諸国を探訪し、その成果を伝えていくことも同じく重要なことでした。そのため、ロンドン万国博覧会の開催に合わせて使節団が派遣されたことは、決して偶然の一致ではありませんでした。ここで、日本人たちは、西洋の国々が辿り着いた成果というものを学ぶことができたのです。

派遣は1年以上に及びました。使節団がたどった経路を見てみましょう。

使節当時、福澤諭吉は、まだ29歳でした。日本で数少ないオランダ語と英語話者だったため、使節団では通訳として活躍しました。彼は、すべての出来事を詳細に記録しました。

福澤は、日本の文久使節の中で最も印象的な人物でした。帰国後、日本で最も影響力のある近代化の指導者の一人として、新しい文化を積極的に取り入れ、日本で最初の西洋スタイルの大学(慶応義塾大学)を設立しました。日本では、1万円札紙幣に顔が印刷されているほど有名な人物です。

(Y. Fukuzawa in Europe; Nadaro / Japan's Diplomatic Archive)

(the page from Y. Fukuzawa diary where Kaunas in mentioned in 1862; Y. Fukuzawa Research Centre / Kristijonas Jakubsonas)

9月17日の朝、代表団はサンクトペテルブルク行きの列車に乗り込みました。10時間の旅を後、翌日の午前7時、カウナス駅に到着しました。ここで朝食をとってから、数時間市内を散策しました。福澤は、数年前に建設されたという鉄道橋(現在もカウナスにある)に感銘を受けました。使節団員の一人、市川渡は、トンネルとホテルでの朝食について回顧録に記していました。

訪問当時、リトアニアはロシア帝国の一部でした。それでもリトアニアを訪れた人々は、その土地の気候や人の様子がサンクトペテルブルクとは異なることを指摘しました。そして、東欧の平原とそこに放牧された牛や羊に大変驚きました。この日、一行は鉄道で西ベルリンに向かいました。福澤は手記の中で、国境の町ヴェルクボロヴァ(現キバールタイ)とエイトクーナイ(現チェルンセブスカヤ)について触れています。

任務を終えて帰国した日本人たちは、ヨーロッパ諸国に対する今まで全く異なる見解を持ち帰りました。西洋文明の進歩、技術、鉄道、工業、統治された社会、美しく整備された都市などについて使節団は報告をしています。こうした西洋への憧れは、日本に一刻も早く新たな文明を取り入れんとする姿勢を後押ししました。そして、「和魂洋才」スローガンを掲げ、西洋を手本にした近代化を加速させていくのでした。数十年のうちに、日本はアジアの中で最も近代的な国家となり、ロシア帝国に挑み、戦争を始めるに至っていました。

その後の使節団

岩倉使節団(1873年)
リトアニアへのミッション訪問

最初の日本使節団から11年後の1873年3月29日、再び重要な日本使節団が現在のリトアニア領を訪れました。アメリカやヨーロッパを訪問していた岩倉使節団です。使節団は3月末にサンクトペテルブルクに向かう道中と、ベルリンへ戻る道中の2度、リトアニアを通過しました。2回目の訪問だった4月15日には、現在のリトアニアの首都であるヴィリニュスにも立ち寄りました。

(the page from Iwakura Mission book that mentions arrival to Lithuania; National Diet Library)

使節団の概要

(members of the mission)

1871年11月12日に使節団は動き始めました。アメリカを皮切りに、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、プロイセン、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスを訪れました。マルセイユを出航した船は、1873年9月、最後に横浜に到着しました。合計21カ月間の任務となりました。

この使節団を率いたのは、当時日本で最も影響力持つ人物の一人、岩倉具視でした。この使節団は、欧米諸国に日本との不平等条約を見直すよう働きかけようとしていましたが、うまくいきませんでした。それでも、その中で多くの資料を収集し、日本の近代化に大きく貢献しました。中には、西洋に残って勉強を続け、帰国後、さらに新たな知識を持ち帰り、日本の近代化に役立てた学生たちもいました。

久米邦武

久米邦武(1839〜1931年)は、岩倉使節団の記録係を担当し、大使の個人秘書でもあった人物です。彼は常に資料の収集に努め、メモをとり続けていました。まとめ上げた情報を1878年に『特命全権大使 米欧回覧実記』という全5巻にわたる本を出版しました。ロシア帝国、すなわちリトアニアをめぐる旅については、その中の第4巻に収録されています。この旅の後、久米邦は東京大学や早稲田大学で教鞭をとるなど、著名な学者となりました。

福島安正(1892年)

日本人によるもう一つのリトアニア訪問は......馬によるものでした。1892年2月末、福島安正少佐(1852〜1919年)はカウナスに到着しました。ベルリンの駐在武官となった彼は、プロイセンから遥か遠い祖国へと馬で帰ることを決めます。厳冬のポーランドをなんとか越え、2月24日にカウナスに到着し、数日間をここで過ごしました。その後、ウクメルゲ(ヴィルクメルゲ)とダウガヴピルス(ディナブルグ)を過ぎ、馬でサンクトペテルブルグへと向かいました。

(Y. Fukushima around 1892; Historia wojskowa)

福島は、その旅の全てを『シベリア単騎横断』に記しています。この本の中でリトアニアに関する内容に数ページが割かれています。当然ながら、一番の関心は軍事要塞で、カウナスを多くの兵士がいる要塞であると表現していました。また、当時ポーランドとロシアを結んでいたカウナスの橋に着目していました。この二つの国は異なる暦を使用していたため、日付に13日間もの差がありました。その結果、少佐は橋を渡るのに13日もかかってしまったことになります。後に彼は、これについて世界で一番不思議なことであると振り返っています。

(cover of "Lonely journey on a horse"; National Diet Library)

福島は1892年2月11日にベルリンを出発し、1893年の6月29日に東京に到着しました。ベルリンから日本までの旅は全部で504日間、14,000kmに及びました。道中、カウナス、サンクトペテルブルク、モスクワ、イルクーツク、ウラジオストク、満州、モンゴルなどを訪れています。この間、福島は現地の人々やロシアが整備したインフラ、当時建設中であったシベリア鉄道などを視察しました。日本はすでにロシア帝国との戦争の準備を始めており、福島の旅の目的は偵察であったと考えられています。

(Y. Fukushima)

На самомь дѣлѣ интересную картину представляль этот въѣздь. Толпа любопытныхь прибывала сь каждою минутою и уже около краснаго собора (Николаевскаго) трудно было ѣхать по улицѣ.

実際、この(市内)散策は興味深い光景だった。好奇心に溢れた人の群れが刻々と増え、赤い(ニコラス)大聖堂の横の通りに出るのが困難になってきた。

– 「カウナス・グベルニヤ知識補充(原語 "Kauno gubernijos žinių priedas")」新聞

1892年3月4日付

書誌情報

Tue ‒ Thu: 09am ‒ 07pm
Fri ‒ Mon: 09am ‒ 05pm

Adults: $25
Children & Students free

673 12 Constitution Lane Massillon
781-562-9355, 781-727-6090