リトアニア人、ポーランド人、ベラルーシ人、日本人

日本最初のリトアニア人

(日本 B. H. Tiškevičius / J. Stubbe archive)

リトアニアの土地を最初に踏んだ日本人が誰なのかははっきりとしています。しかし、日本を最初に訪れたリトアニア人が誰なのか、簡単には答えられません。それは記録がないからではなく、この時代におけるリトアニア人というものの定義が複雑であるがゆえに、こうした難問が生まれてしまうのです。1918年にリトアニア共和国が成立するまで、リトアニア人のアイデンティティは言語に基づいて決まっていたわけではありませんでした。何世紀にもわたって、リトアニア大公国(GDL)、ベラルーシ、ポーランドとロシアの一部の住民たちは、自らをリトアニア人と呼んできました。こうしたアイデンティティは、GDLが存在しなくなった19世紀にも残っていました。リトアニア人たちは、ポーランド語、ベラルーシ語、リトアニア語、イディッシュ語など、様々な言語を話していたのです。

20世紀に入ってようやく、アイデンティティの違いが現れはじめ、前述の人々は近代的なアイデンティティの選択を迫られるようになりました。その中でポーランド人やベラルーシ人になった人もいます。19世紀に日本との関係を築いた最初のリトアニア人は、リトアニア語話者ではなかったと歴史は教えてくれています。しかし、彼らは自らをリトアニア人であると感じており、その国に根を下ろしたのです。このトピックはそんな彼らに捧げるものです。

ヨシファス・ゴシュケヴィチュス(ゴシケヴィッチ)
(Язэп Антонавіч Гашкевіч, 1814-1875)

最初の露和辞典の編纂者で、日本最初のロシア領事だった人物……それはリトアニア人でした。 ヨシファス・ゴシュケヴィチュス(ゴシケヴィッチ)は、ロシア帝国の初の日本史研究家の一人で、日露関係に大きく貢献した人物です。母国語であるベラルーシ語とロシア語に加え、中国語、日本語、満州語、朝鮮語、モンゴル語を話すことができました。彼の人生はいわず、ミンスク、サンクトペテルブルク、ヴィリニュス、アストラバ、北京、函館など、世界各地を渡り歩くという、物語のようでした。ゴシケヴィッチは、アイデンティティとしてのリトアニア人というだけでなく、リトアニアという国とも結びついていました。ヴィリニュスのザヴァズキス印刷所から出版された彼の著書『日本語のルーツについて』の中でも、その関係が示されています。

1814年、ヤキモヴォ・スロボダ村(当時はミンスク県レチカ地区)に生まれる。

ゴシュケヴィチュス家は、リトアニア大公国の貴族ルテニアに起源を持つ家でした。

(ベラルーシ国家文書館所蔵の出生証明書 НГАБ Ф. 136. Воп. 13. Спр. 514. А. 594 адв.)

1835年 ミンスク神学校を優秀な成績で卒業

(ジロヴィッチャイ修道院・神学校 Pompei Nikolaevič "Бѣлоруссія и Литва. Историческія судьбы Сѣверозападнаго Края" p. 187, British Library HMNTS 9456.g.10)

1839年、サンクトペテルブルグ神学アカデミーを卒業

当時、アジアの言語に興味を持ち、『旧約聖書』を古代ヘブライ語からロシア語に翻訳しました。

(20世紀初頭のサンクトペテルブルグ神学アカデミー)

1839年8月29日、中国へ向かうロシア精霊使節団員に任命される。

これは、中華帝国におけるロシアの文化、宗教、言語の普及を目的とした、第12次ロシア北京派遣でした。ゴシケヴィッチは中国で1848年までの約10年間を過ごし、その間に中国語を習得しながら、朝鮮語、モンゴル語、満州語、日本語など他の東アジアの言語にも関心を持つようになりました。

(1850年頃の使節団 K. A. Skačkov album)

(中国初の正教会)

1852年、ロシア初の日本への使節団員に任命される。

西欧の大国が日本との貿易相手になろうと競い合っていた頃、ロシア帝国は日本に最初の使節団を送りました。ゴシケヴィッチも中国語と日本語の書物を翻訳する役割で使節団に加わりました。

1855年、下田条約の調印に参加

1855年2月7日、ゴシケヴィッチの積極的な関与もあり、ロシアと日本は下田条約を結び、両国は貿易・外交関係の道を開いたのでした。

(「ヘダ号」 無名の日本画家、1855年。船の近くに描かれたゴシュケヴィチュスと、その横に書かれた彼の名前)

1857年、初の和露辞典を刊行

(Японско-русский словарь, составленный И. Гошкевичем при пособии японца Тацибана-но Коосай. — СПб, 1857. XVII. — 462 с.)

世界で初めて作られたこの日露事典がロシアで刊行された1857年という年は、日本ではまだ鎖国令が厳しい江戸時代末期の安政4年にあたる。

これより先の安政元年、日露修好条約の締結を求めて来航していたプチャーチン艦隊の中国語通訳官 O. A. ゴシケヴィッチが、掛川藩を脱藩して身を持ち崩していた橘米蔵という浪人の密出国を手助けし、イギリスを経てロシアの首都サンクトぺテルブルクへと導き入れていた。

ゴシケヴィッチは来航の際、日本沿岸で津波を受けて大破した乗艦の代替船建造中に、橘から日本語を学んでおり、ロシア国内での日本語研究を推進する必要性を痛感する中で、橘の才能を活かした日露事典の編纂に着手した。

本書の編纂については、それまでにイエズス会などによって刊行されていた幾つかの日本語の研究書や辞書類を参考にしたといわれ、約1万5800語を収録してロシア外務省のアジア局から出版されたものである。

また橘は、自らを標題紙上で「橘耕斎」と称し、生活する中ではヤマトフ(大和夫)と名のって外務省の通訳官やぺテルスブルグ大学の東洋学部の教員を勤めた。明治時代になって訪露した日本政府要人の計らいで同7年に帰国し、仏門に帰依した。一方、ゴシケヴィッチは安政5年に、初代ロシア領事として函館へ赴任し、日露関係史にその名を留めることとなった。

1857年12月21日、ロシア帝国初の駐日領事に任命される。

(函館領事館・教会)

時の外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフはゴシケヴィッチの日本語の知識を高く評価して、領事に任命しました。1858年11月5日に彼は北海道、函館に到着しました。同年、江戸にあった将軍の元へ出向き、貿易や海運事業に関する条約について会合を行いました。1862年、ロシア帝国の人間として初めて日本の将軍徳川家茂に面会しました。初代領事の働きは日露両国に非常に価値のあるものでした。日本初のキリスト復活教会を函館に建設する際にも貢献しました。隣には、最初のロシア大使館、ロシア語学校、病院も建てられました。領事が現地の習慣や文化に敬意を持ち、それに馴染もうとした点で、ロシアは日本で大きな尊敬を集めるようになりました。また、北海道内でロシア語学習の人気も高まりました。

1865年、ロシアに帰国

1864年、函館のロシア駐在武官との関係悪化がきっかけで、領事の職を辞任すると申し出たゴシケヴィッチはサンクトペテルブルクに戻りました。サンクトペテルブルクでは、外務省アジア局に数年間勤務しました。その後、外務省を辞職し、外交官としてのキャリアを終えました。

(Oт Немана к берегам Тихого океанаより; 画家A. F. Korčiagin)

1867年、ヴィリニュス県へ移住

オストラヴァ近郊のモリァイ(Малі)村に腰を据えた後、日本語学習と語彙の強化に時間を費やしました。『日本語のルーツについて』という本(リトアニア語 "Apie japonų kalbos šaknis"、ロシア語 "О корнях японского языка")を書き上げました。この本は、1899年にウィーンで出版されました。ゴシケヴィッチは日本の版画や書籍1346点、地図47点を含む非常に大きな規模の図書資料や貴重な地図などを集めていました。

1875年10月5日、ヴィリニュスで死去

オストラヴァ・プロヴォスラヴ墓地に埋葬。1989年に彼の胸像は函館市の施設に展示されています。

(リトアニア国立公文書館にある死亡の記録 Ф. 605. Воп. 20. Спр. 484. А. 59 адв.)

ベネディクタス・ティシュケヴィチュス
(Benedykt Henryk Tyszkiewicz, 1852-1935)

ベネディクタス・ティシュケヴィチュスは、リトアニア初の写真家の一人で、カウナス近郊のラウドンドヴァリスに実家があります。写真への情熱から、彼は世界中を飛び回り、遠くの土地やその文化を写真におさめてきました。彼が訪れた国の一つに日本があります。彼は1875年に日本を訪れ、その地で写真を撮った最初のリトアニア人写真家となりました。

(日本 B. H. Tiškevičius / J. Stubbe archive)

(日付をクリックすると詳細が表示されます)

  1. 1852年12月9日、ヴィリニュス近郊のネメジスに生まれる。

    一人息子だった彼は、早くに孤児となります。両親の死後、母方の祖父ベネディクタス・エマヌエリス・ティシュケヴィチュス(1801〜1866年)がラウドンドヴァリスへ引き取り、教育面の世話をしました。1866年8月23日、祖父の死後、14歳のベネディクタス・ヘンリカス・ティシュケヴィチュスは、ヨーロッパで最も裕福な人物の一人となりました。

    (2007年のネメジス荘園 Juliux / Wikimedia)

  2. 1874-1876年、渡米、旅と写真のはじまり、最初の写真展を開催

    アメリカで最新型のヨットを見た彼は、世界一のヨットを持ちたいと考え、ル・アーヴル造船所にヨットを注文します。リトアニア出身であることにちなみヨットを「ジェマイテイ」と名付けました。そして、このヨットで世界一周をしようと考えました。インド、中国、日本などアジア諸国を回った彼は、リトアニア人として初めて日本を訪れたとされています。旅先で撮った数多くの写真を持ち帰りました。旅をしていない時は、伯爵としてパリに住み、頻繁にニースで過ごしていました。

    ティシュケヴィチュスはフィラデルフィアで開かれた写真展で、アルジェリアを旅行した際のユニークな写真を出品し、金賞に輝きました。

    アメリカでクララ・エリザベス・バンクロフト(1857〜1883年)と結婚。

  3. 1883年以降、定期的にリトアニアの所有地へ戻る

    (2012年のラウドンドヴァリス Juliux / Wikimedia)

    妻のクララ・エリザベスはほどなくしてこの地で亡くなり、31歳だった伯爵は3人の子供を持つ寡男となりました。彼は妻を自分の祖父が眠るリトアニアのラウドンドヴァリスに埋葬しました。

    この伯爵はフランスに住みながら、様々な国を旅していましたが、故郷のラウドンドヴァリスとヴィリニュスから南東に100kmほどのところにあるヴィアラの荘園をいつも気にかけていました。特にラウドンドヴァリスは、最愛の人が眠る安息の地であり、伯爵にとっては大切な意味を持っていました。また、ティシュケヴィチュスはここにリトアニアで最も豊富な個人コレクションを所蔵し、その贅沢ぶりで地元の人々を驚かせました。伯爵の要望で、夜にはラウドンドヴァリス公園に東洋風の提灯が吊るされ、東洋風の布を着せられた仔馬たちが、中国風の服を纏った伯爵を輿に乗せて運んだといいます。

  4. 1914年、フランスに定住

    第一次世界大戦中、ティシュケヴィチュスはロワール河口のサン・ナゼールという町で暮らしました。戦争が終わると、彼は旅をやめました。

  5. 1935年5月13日、南フランスのマントンで死去

    ニースにある家族の墓で、母親の隣に埋葬される。

    (写真:Antoni Giurtler; Kretinga Museum archive)

ブロニスワフ・ピウスツキ
(Bronisław Piłsudski, 1866-1918)

ブロニスラフ・ピウスツキもまた、リトアニアから初めて日本を訪れた人物の一人です。そして、ロシア帝国では科学者、民族学者となり、世界で初めて樺太、北海道、千島列島の民族の文化を存続させた人物の一人でもあります。彼はアイヌ民族の唯一の研究者であり、その生活様式を文章、録音、写真で記録していました。ピウスツキは、リトアニアとポーランドという二つの民族的アイデンティティを持つ人物でした。当時、このような二重の出自を持つ者は多く、異邦リトアニア人、国家ポーランド人と呼ばれました。ピウスツキ自身はリトアニア人だと自己紹介することが多かったようです。また、ピウスツキの世代の人々の回想録の中では、彼があらゆる文化や国籍を代表する人々に対して寛容であり、愛情を持って接していたことが強調されています。

1866年11月2日、リトアニアのザラヴァス荘園に生まれる

彼は12人の子を持つ大家族に生まれました。兄弟の中には、後のポーランド大統領となるヨゼフ・ピウスツキがいました。

(ザラヴァス荘園跡 Vikimedija / Vilensija)

1877年、荘園焼失後、ピウスツキ家はヴィリニュスに移住

1881年から1882年にかけて、ヴィリニュス第一ギムナジウムの5年生として学びました。19世紀末になると、反タリストの思想が広まり、ピウスツキもその思想に魅せられていきます。この思想が原因で、彼は1885年にギムナジウムを退学させられました。

(学生クラブ「Spojnia」のメンバー、左から2番目と3番目がブロニスワフとヨゼフ兄弟)

1886年、サンクトペテルブルク大学法学部に入学

ここで彼は、ツァーリ・アレクサンドル3世の暗殺を目的とした組織に積極的に関与するようになります。

1887年4月、サハリン島へ15年間の流刑。

同年8月、オデッサから船でこの太平洋の島に到着した彼は、島で生活しているうちに、現地の人々の文化に興味を持つようになりました。在野の研究者として、アイヌ、ニヴフ(ギリヤーク)、ウィルタといった絶滅の危機に瀕した部族の文化について研究を行いました。その中で写真や音声の記録収集に努めました。

1900年、流刑の廃止

13年の刑期を終えた後、ロシア科学アカデミーから、南樺太のアイヌ、ニヴフ、ウィルタの文化を研究するようにとの依頼を受けます。ピウスツキは地元住民のチュフサンマ・バフンケと結婚しました。子孫は現在も北海道に住んでいます。

1903年、アイヌ文化を探るため北海道に渡る。

ここでアイヌ語の用例を記録し、やがて1万語のアイヌ語辞典、6千語のニヴフ語辞典、2千語のマンチェスター方言辞典を出版しました。これらの国々の文化、風俗、伝統を記述し、約300枚の写真を撮影しました。

1904年、日露戦争勃発に伴い来日した彼は、作家の二葉亭四迷と親交を深め、日本・ポーランド文化会を設立しました。
1906年、ヨーロッパへ戻る

亡命先からヨーロッパに戻った後、クラクフやザコパネで暮らしました。

(Wikimedia / Piotrus)

1912年、アイヌの民族・言語・民間伝承研究への準備を行う
1914年、ポーランドから移住

第一次世界大戦の勃発と同時にスイスに渡った彼は、1917年、パリに移住しました。

1918年、パリで死去

パリ近郊のモンモランシーにあるレ・シャンポー墓地に埋葬されました。ザコパネの旧墓地には彼を象徴する墓があります。サハリン(ロシア)と北海道(日本)には、彼を偲ぶ記念碑が建てられています。そのほか、クラクフのポーランド科学アカデミー図書館の壁には記念プレートが設置されています。

(ブロニスワフ・ピウスツキ撮影の写真 Druskininkai City Museum archive)

書誌情報

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  • N.D. Raudondvario grafas B. H. Tiškevičius - fotografas. Kauno rajono muziejus.
  • N.D. B. H. Tiškevičiaus fotografijos. Kauno rajono muziejus.
  • Neimantas, Romualdas. 2003. Nuo Nemuno iki Fudzijamos. Kaunas: Spindulys.
  • Piłsudski, Bronisław. 1998. The Collected Works of Bronisław Piłsudski. Walter de Gruyter.
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  • Обухова, Н. И. 2019. Иосиф Антонович Гошкевич — миссионер, дипломат, лингвист, востоковед. Минск: Мин. обл. ин-т развития образования.
  • 港区ゆかりの人物データベース 『増田甲斎』
    須藤隆仙『箱館開港物語』北海道新聞社、2009年。ISBN 978-4-89453-519-0。
  • 伊藤一哉『ロシア人の見た幕末日本』吉川弘文館、2009年。ISBN 4642080201。

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