戦間期のリトアニアに日本を紹介した旅人

マタス・シャルチュス

マタス・シャルチュスは、戦間期のリトアニアで最も華やかな人物の一人です。教師、ジャーナリスト、翻訳家、公共団体の意欲的な創設者、クリエイター、そして、リトアニア共和国という若い国を支える人物でした。しかし何よりも、M・シャルチュスはその旅への情熱で知られています。遠く離れた土地を訪れ、短い人生のうちの12年間を、東アジアの国々を含む海外で過ごしました。日本には三度も訪れています。

旅の中で記憶に残ったことは、日記、手紙、新聞記事、旅行記などに記録され、当時はどれも大変な人気だったと言います。

(A.バラナウスカスとA.ヴィエニュオリス・ジュカウスカスの記念博物館 VŽM F 1019)

紆余曲折の人生

M・シャルチュスの役職や経歴を一息に列挙することは不可能です。小さな村の生まれでありながら、M・シャルチュスは大きな野心を抱いた開放的な人物になりました。その明朗快活な性格ゆえに、一つの場所に長く留まることをよしとせず、他人から見れば常軌を逸したと思われるような新しい計画を企てることもしばしばありました。今日では、M・シャルチュスはリトアニアと密接な関係を持つ、好奇心に溢れた世界市民であったと考えられています。

(日付をクリックすると詳細が表示されます)

  1. 1890年9月2日、チュディシュケイ村生まれ。

    M・シャルチュスの家は大家族で、母・プラネと父・ユオザスは共に農家でした。

    (Wikimedia/Vilensija)

  2. 1901年、マリヤンポレ・ギムナジウムに入学。

    8歳のシャルチュスはプリエナイで個人教授を受けていました。11歳になると、マリヤンポレ・ギムナジウムに通い始めます。卒業後、シャルチュスはサウレ教育会が設立した教職課程を修了しました。

    (国立チュルリョーニス美術館 ČDM M 2-27-1/3)

  3. 1908年、教鞭をとる。

    M・シャルチュスは1922年まで断続的にスクオダス、モセーディス、ヴィートガラ、リンクワ、カウナスの複数の学校で教師として働きました。

  4. 1915年、渡米。

    1914年の終わり頃、M・シャルチュスは帝政ロシア軍に招聘されます。彼はロシアのために戦うことを望まなかったため、1915年にシベリアと日本を経由してアメリカへと逃れました。ボストンに暮らし、リトアニア移民のコミュニティ、特にリトアニアプレスでの活動に積極的に参加しました。

    (リトアニア国立図書館 C10002488991)

  5. 1919年、リトアニアへ帰国。

    リトアニアの独立宣言後、M・シャルチュスはアメリカを離れ、往路と同じように日本とシベリアを経由して帰国することを決めました。最初は教師として働いていましたが、やがて社会活動にも携わるようになり、新聞関連の活動に注力しました。

    (リトアニア国立図書館 C10002478095)

  6. 1924年、大学で学ぶ。

    1924年から1928年にかけて、M・シャルチュスはリトアニア大学(現ヴィータウタス・マグヌス大学)の法学部で学びました。

    (リトアニア国立図書館 C10002478090)

  7. 1929年、観光連盟設立に貢献、その壮大な旅が始まる。

    M・シャルチュスは、さまざまな方法でリトアニア国内の観光を促進し、1929年には観光連盟の設立に貢献しました。同じ年の晩秋、シャルチュスはアンタナス・ポシュカと共に、彼の人生の中で最も大きな旅を始めました。それはオートバイに乗りながら行ったもので、その期間も4年間に及びました。この旅の際、彼は再び日本を訪れることになりました。

  8. 1936年、第二の大旅行。

    1929年から1933年におよぶ東洋への旅に大いに刺激を受けたM・シャルチュスは、今度は西へ、特に南米諸国を訪れる計画をします。まず彼はアルゼンチンに滞在し、その後、チリ、ウルグアイ、ブラジル、パラグアイ、ボリビアへと旅を続けました。

    (ブラジル・サンパウロを訪れたM・シャルチュス

  9. 1940年5月26日、ボリビアで病死。

    悲しいことに、ボリビアはM・シャルチュス第二の大旅行の最後の国となりました。彼は急性炎症を起こし、ブラジリアの国境にあるグアヤラメリンという町で突然の死を迎えてしまったのです。彼はその土地に埋葬されました。

    (「Trimitas」1940年6月13日)

初来日

M・シャルチュスは帝政ロシアを厳しく批判していたため、第一次世界大戦勃発後は帝政ロシア軍での兵役を避けようとしていました。1914年、彼は徴兵リストに載り、モスクワへ送られます。しかし、1915年の春、彼は抜け道を見つけ、シベリア鉄道に乗って東へと向かいました。そして、ついにウラジオストクにたどり着き、フェリーで日本に渡り、なんとかロシアから逃げ出すことができました。

シャルチュスは日本に1ヵ月半ほど滞在し、本州のさまざまな場所を訪れました。彼が親戚に送った琵琶湖に浮かぶ竹生島や横浜市を写した絵葉書が残っています。M・シャルチュスは現地の人々と交流し、日本の状況に関心を持ったようでした。ムラタスケオという大学生のペンフレンドがいたことからも、それがわかります。二人の友情は数年続きました。

1915年5月、M・シャルチュスは東方への旅を続け、船でアメリカに渡りました。

(リトアニア国立図書館 Matas Šalčius fund F 189)

二度目の来日は、一度目と同じでしたが、経路は逆でした。おそらくM・シャルチュスは、2月16日に宣言されたリトアニア独立回復に触発されて、1918年の初めにアメリカを出発し、船で日本に向かったのでしょう。彼は東京に滞在し、ほぼ1年間を日本で過ごしました。写真とメモが残っています。

(リトアニア国立図書館 Matas Šalčius fund F 189)

壮大な旅

M・シャルチュスは、同じく旅人のアンタナス・ポシュカと共に、ヨーロッパとアジアへの壮大な旅を始めました。1929年11月、二人の旅はカウナスを出発するところから始まります、なんとオートバイでの旅です。彼らはヨーロッパ諸国を旅し、ギリシャに到着した後、エジプトに行き、近東への旅を続け、インドの近くまでやってきました。

M・シャルチュスの訪れていた所:

M・シャルチュスの書籍からの地図、旅中の写真)

その後、M・シャルチュスはA・ポシュカと別れ、バイクに代わって別の乗り物を利用するようになります。1932年、M・シャルチュスは単独で中国に到達し、日本の統治下にあった満州国や朝鮮半島を訪れています。その体験と彼が受けた印象は、当時の日本の政策を厳しく批判する内容として、中国の新聞などに掲載されました。

(リトアニア国立図書館 Matas Šalčius fund F 189)

同年末、M・シャルチュスは東へと旅を続け、上海から日本まで船で渡りました。長崎の港で数日過ごした後、同じ船に乗って神戸へ到着しました。予想外の出来事が起こったのは、その港でのことでした。なんとM・シャルチュスは日本軍の将校に捕らえられてしまいます。このリトアニア人旅行者は、日本に対して非友好的であると非難を浴び、好ましからざる人物(ペルソナ・ノン・グラータ)であると宣言されました。M・シャルチュスは、船を離れることを許されませんでした。

日本の国家安全保障当局は、M・シャルチュスのジャーナリストとしての活動を観察し、彼の日本に関する批判的な記事の数々についても熟知していたと考えられています。それらの記事の中で彼は、日本の近隣諸国に対する侵略を非難していました。その後、M・シャルチュスは神戸を離れ、上海に戻ることを余儀なくされました。

M・シャルチュスに関するドキュメンタリーからの抜粋をご覧ください。

レガシーと記念

M・シャルチュスが残したものは、講演、リトアニアや外国の新聞への寄稿、数々の言語からの翻訳、著作権で保護された書籍など多岐にわたります。また、公文書館には未発表の原稿が複数見つかっています。さらに、晩年、南米から親戚に宛てた手紙の中には、後に消えたとされる新しい旅行記にまつわるヒントが隠されていました。研究者たちの関心を惹くものがまだ数多くあり、もしかしたら、将来、誰かがこのダイナミックな人物の活動に関する新事実を発見してくれるかもしれません。

(写真:Vilensija, Andrjusgeo, welovelithuania, XXI amžius)

書誌情報

Tue ‒ Thu: 09am ‒ 07pm
Fri ‒ Mon: 09am ‒ 05pm

Adults: $25
Children & Students free

673 12 Constitution Lane Massillon
781-562-9355, 781-727-6090