本を通してリトアニアを知る

日本でのリトアニア:人々と本

おそらくリトアニアの人々は日本のことを知っているでしょう。しかし、30年前に地図に現れた国であるリトアニアについては日本では長い間よく知られていませんでした。幸運にも、杉原千畝の「命のビザ」がこの2カ国をつなぎ、リトアニアでの関心を高める要因になりました。ここ数十年、リトアニアはフルクサスの作品、映画や音楽、展示にイベントなどを通じて自国の文化を紹介する機会を多く持つようになりました。

(一郎加藤とヤドヴィガ・チュルリョーニテー 「Švyturys」、ロムアルダス・ネイマンタス所蔵)

しかしながら、日本でのリトアニアへの関心の始まりは20世紀にまで遡ります。1970年代、少人数の日本人がチュリオニスクラブに集まり、彼の作品のオーディションや展覧会を開催しました。リトアニア会もしばらくの間にわたって開催され続けています。それと同時にエキゾチックなリトアニア語への関心も高まり、リトアニアのおとぎ話が日本語に翻訳され、そして今では嬉しいことにかなりの量のリトアニアに関する書籍が日本にあります。子供向け文学、古典的なリトアニアの作家、リトアニアの歴史を紹介する本など、様々な書籍が存在します。これらの本のおかげで日本人はリトアニアの歴史や文化について学び、彼らの多くがリトアニアの友達となっていきました。

言語学者と翻訳

日本でリトアニア語は比較にならないほど他の言語に比べて人気がないものの、その「エキゾチック」な魅力が人々の関心を惹きました。日本の学者グループがリトアニア語に興味を持ち、学び、両国の架け橋のような存在へとなりました。

把瑠都のリトアニア語に興味を持った日本人学者は三つの世代に分けられます。矢野通生はリトアニア語のアクセント学と古プロシア語を専門とし、第一世代に属し、比較言語学に大きく貢献しました。1975年から20年以上にわたって彼は名古屋大学でリトアニア語を教えていました。村田郁夫もこの世代に属します。井上幸和は第二世代に属し、特にプロシア語に興味を持ち、リトアニア語、ラトビア語、プロシア語の比較研究を行いました。第3世代は櫻井暎子と柳沢民雄などが含まれます。

(Kimiko Yamaoka)

言語研究は、言語学の実用化と切っては離せない関係にあります。そのため、リトアニア語を知る日本人の多くは、リトアニア文学を日本の読者に向けて翻訳をするといった仕事もしています。初代、また最も多くの作品を翻訳したのは1972年から翻訳を行なっている東京経済大学の学者である村田郁夫です。

村田郁夫(1938年生まれ)は言語学者。バルトの国々の言語に興味を持った学者の第一世代にあたる人物です。1963年に早稲田大学を卒業し、(古・新インド・ヨーロッパ語学を専攻)、1970年にはアメリカのオハイオ州の大学でリトアニア語とラトビア語を、そしてストックホルムの大学でバルト語を学びました。日本では東京経済大学で働き、バルト語の形態学に関する多数の文献を書き、世に送り出しました。

彼はこれらの言語に関する多くの学術論文を書き、辞書「リトアニア語の 1500 の基本単語」(1994年) と「ラトビア語の 1500 の重要な単語」(1997年)を短い文法と共に出版しました。1973年〜1977年には、クリスティヨナス・ドネライティスの「年」(リトアニア語で “Metai”)とアンナタス・バラナウスカスの「アニークシュチェイの松林」(リトアニア語で “Anykščių šilelis")の一部、またリトアニアのおとぎ話、V.アダムクスやJ.メカスを始めとする多くのリトアニア作家の作品を日本語に翻訳しました。2001年にはリトアニア大公国のゲディミナス勲章が授与されました。

(クライプーダ地区I.シモナイティテー図書館所蔵)

柳沢民雄はバルト言語学者の第3世代にあたります。彼は長野大学で研究をしていた矢野道雄の生徒で、日本で最も有名な強勢学のスペシャリストとされています。強勢学に関する書籍の多くは、1990年代に出版されました。例えば、1990年には、約1万語の単語とリトアニア語の文法の紹介からなる『リトアニア語-日本語短編辞典』を出版しました。

バルト言語学者の第3世代であり、矢野道雄教授の教えを受けていた櫻井映子は名古屋大学で働いたあと、大阪大学外国語学部でそのキャリアを続けました。現在は東京外国語大学の外国語学部でリトアニアを教えています。リトアニア語の形態論と構文を研究し、このテーマに関する多くの記事が出版されています。2007年には日本語学習者向けにリトアニア語のテキストを出版しました。

(J. Petronis / VDU)

東京のお茶の水女子大学卒業の木村文は、リトアニア語から日本語への翻訳、またリトアニア語の先生として大きく活躍している人物の1人です。彼女の活躍により、たくさんのリトアニアの著者の作品が日本の読者に行き渡るようになりました。サロメヤ・ネリス、子供に人気のマリウス・マーチンケビチュス、そしてリトアニア亡命に関する歴史について、大人も子どもも理解できるようにして書かかれた、「シベリアの俳句」(リトアニア語で "Sibiro Haiku")などはほんの1部の例に過ぎません。

木村文所蔵

日本でのリトアニアに関する書籍

日本でのリトアニアについて最も総合的に書かれている本が、2020年に出版された、櫻井暎子著の「リトアニアについて知るための60章」です。リトアニアの歴史、社会、文化、経済、政治などについて、日本人読者に向けて書かれています。、「蛇の女王エグレ」(リトアニア語で"Eglė Žalčių karalienė")の日本語翻訳が出版された1972年から、現在に至るまで、リトアニアを様々な面から紹介する40冊以上もの本が出版されました。カウナスでの杉原千畝の功績に関するものを加えると、その数はさらに大きくなります。

村田郁夫、櫻井映子、木村文、そして重松尚は最も大きく貢献した日本・リトアニア語間の翻訳家として認知されています。

(A. Zykas)

日本の読者は村田郁夫によるクリスティヨナス・ドネライティスとアンタナス・バラナスカスの翻訳を通じ、リトアニアのフィクション作品に初めて触れました。1973年、東京経済大学の人文自然科学論集は、クリスティヨナス・ドネライティスの「年」(リトアニア語で"Metai")からの抜粋である、「春のお楽しみ」の最初の144行を出版しました。1973年から1977年の間、村田郁夫「年」(「春の楽しみ」と「夏の仕事」)と「アニークシュチェイの松林」の一部が大学の学論集へ出版され、原文は日本語訳も含まれました。それに加え、リトアニアの歴史、他の著者の作品,そして他言語への翻訳が学論集にて掲載されました。実際には、それらの翻訳は単行本では出版されなかったため、学界内のみで知られました。

(クライプーダ地区I.シモナイティテー図書館所蔵)

ステポナス・カイリースは日本に関する本を書いたはじめてのリトアニア人作家です。また、畑中幸子は中部大学の教授で、リトアニアに関する本を1番最初に書いた日本人で、1996年、「リトアニア〜小国はいかに生き抜いたか」が出版されました。本書にはリトアニアの歴史、占領への抵抗とそこからの独立運動についてが書かれており、2006年にはリトアニア語に関する本を、ヴィーギリユス・ツェパイティスと共に、もう一度出版しました。

リトアニアの歴史、特に20世紀は日本社会の関心を惹きつけ、数多くの本になりました。志摩園子による「バルト三国の歴史」(2004年)、ステポナス・カイリースについて書いた平野久美子(2010年)は、リトアニアの歴史に関する研究を活発に行いました。リトアニアの歴史に関する書籍のリストには、ユーザス・ウツブシース(1991年)とヴァルダス・アダムクス(2002年)の回想録の翻訳本、リトアニアの歴史社会のリトアニア歴史(2013年)、シモナス・ステルコヴァスの「良い、悪い、貧しい」(リトアニア語で“Geri, blogi, vargdieniai“)です。それに加え、カウナスで活躍した杉原千畝の功績に関する多くの本も出版されました。

1972年に出版された村田郁夫の「蛇の女王、ミグレ」(リトアニア語でEglė Žalčių karalienė”)はリトアニア文学の日本語への最初の1番最初の翻訳として知られました。その後、リトアニア語、ロシア語、そしてドイツ語などの様々な言語から日本の子供たちへ向け、「ミルデゥテ」(リトアニア語で“Mildutė”)、「白鳥のおきさき」(リトアニア語で“Gulbė karaliaus pati”)などのおとぎ話が紹介されました。

2019年、子ども向けのリトアニア文学の翻訳が流行しました。数年の間にカケ・マケ(佐藤はるかによる翻訳)の本2冊とマリウス・マーチンケヴィウスの「小さな子供たちのための小さな詩」(リトアニア語で “Maži maži eilėraščiai mažiems”)が出版され、サロメヤ・ネリスの作品も翻訳した、木村文が翻訳を担当しました。

リトアニアへの功労賞を受賞した日本人

日本人としてリトアニア国家賞を受賞したアジア諸国で最多の31名は、リトアニアと日本の友好関係を最もよく表しています。そのリストにはリトアニア独立についての記事を書いたジャーナリストや学問関係を確立させた科学者や自治体を推進した政治家が含まれました。

(このセクションの重要な情報は、アウドリウス・サブーナスから提供されたものです。)

(G.ヴァルヴォリス大使と落合克宏、2020年

駐日リトアニア共和国大使館所蔵

1月13日の記念メダル

1993年〜1998年、リトアニアの独立回復に多大な貢献をしたとして、多くの日本人が1月13日の記念メダルを授与されました。1988年から1995年の間、モスクワの日本大使館で勤務していた外交官の佐藤優はそのうちの1人です。1月13日のイベントの際、彼は大使館の連絡手段を用い、情報を共有することによってリトアニアへの支援を表明しました。彼はその出来事について「自壊する帝国」という本の中で、「二日間、私は大使館に泊まり込み、一、二時間に一回、ビリニュスのリトアニア外務省とモスクワのリトアニア全権代表部に電話をして、欧米や日本の報道について連絡した。」と語っています。

 

記念メダルの受賞者は、1月13日をはじめとする1989年から1991年にかけての出来事を取り上げ、それに貢献した日本のテレビ局の特派員やジャーナリストたちです。中山良夫、新見広重、布施裕之、久慈義昭、谷口一郎、崎紘一、名越健郎、山崎博康、吉田茂之、松島芳彦、岩下武史、瀬川清茂です。

外交官と政治家
  • 杉原千畝 1939年から1940年にかけて、カウナスでユダヤ人難民にビザを発給した外交官。
  • 松浦晃一郎 外交官で、ユネスコ事務局長を務めた。
  • 久慈義昭 久慈市長。クライペダとの提携を維持し(1979年-2003年)、1月13日の出来事を支持してゴルバチョフに抗議文を送り、暴力の終結を要求した。
  • 中曽根弘文 政治家、長期国会議員、リトアニアと日本の間の国会議員友好グループのリーダー。
  • 明仁天皇、美智子皇后 1989年から2019年まで統治された日本の皇室、2007年にリトアニアを訪問。
  • 小菅淳一、廣木重之 外交官、駐アフガニスタン日本大使、ゴウル州復興ミッションでリトアニア軍と日本軍の協力に貢献した。
  • 古田肇 政治家、岐阜県知事、リトアニアとの関係発展に大きく貢献した。
  • 落合克宏 政治家、平塚市長。リトアニアとの関係発展に大きく貢献した。
科学者
  • 畑中幸子 中部大学教授 著書「リトアニア:小さな国はいかにして残ったか」
  • 村田行雄 東京経済大学教授、言語学者、リトアニア語から日本語への最初の翻訳をした人。
  • 武田厚 日本原子力研究開発機構の研究員、技術者。リトアニア原子力安全諮問委員会の委員を務め、リトアニア人学生を指導した。
  • 浅島 誠 東京大学教授、発生生物学の研究者、リトアニア科学アカデミーの外国人会員、リトアニアと日本の科学的関係の発展に大きく貢献した。
  • 末松誠 慶應義塾大学教授、医学博士、日本医療研究開発機構理事長、健康科学分野における日本・リトアニア間の協力関係を積極的に発展させた。
  • 櫻井映子 東京外国語大学・大阪大学講師、リトアニアやリトアニア語に関する著書を持つリトアニア人。
アーティスト
  • 本間たまみ リトアニアで何度かコンサートを開き、リトアニアの作曲家の作品を演奏しているピアニスト。
  • 浜中未紀パウラウスカス リトアニア国立オペラ・バレエ劇場のソリスト、2014年からプリマ・バレリーナ、1998年からリトアニアに在住している。

書誌情報

Tue ‒ Thu: 09am ‒ 07pm
Fri ‒ Mon: 09am ‒ 05pm

Adults: $25
Children & Students free

673 12 Constitution Lane Massillon
781-562-9355, 781-727-6090