日露戦争とステポナス・カイリース
日露戦争(1904〜1905年)は、リトアニア人と日本人の初期の関係に大きな影響を及ぼしました。一見すると弱く小さいアジアの国が、強大なロシア帝国を破ったという事実は、全世界の注目を集め、また、リトアニア人にも非常に深い意味をもたらしました。それは、第一に、リトアニア人兵士も直接軍事行動に加っており、第二に、この戦争が「たとえ小国であっても、よく組織され、団結していれば、大帝国を打ち破ることができる」ということを、占領下のリトアニア国民に示したからでした。この考えは、ステポナス・カイリースという一人のリトアニア人を刺激しました。そして彼は戦争が終わった直後の1906年に、日本についての本を出版したのでした。この本は、日本についてリトアニア語で書かれた最初の本となりました。
日露戦争におけるリトアニア人
将校たちと同じく新兵たちも兵役を強いられたように、リトアニア人兵士たちもこの戦争の軍事行動に直接参加しました。一般に帝政ロシア軍はフィンランド人、ポーランド人、ラトビア人、エストニア人など多国籍から成り、宗教もアイデンティティも言語も異なる人々で構成されていました。日本兵は彼らを捕虜にした際に、このような違いに大変驚きました。
抑圧下の国々の兵士たちは、自分たちのものではない戦争に行くことに抵抗を感じていました。脱走が多発し、対馬沖での戦いなどのように日本軍に敗れた際は、兵士たちは非常に喜んでいました。その一方で、この戦争は大多数のリトアニア人にとって重要な課題であり、彼らがその中で手に入れた戦争に関する技術は、そこから13年後の1918年にロシアからの独立を勝ち取るために利用できるものでした。このような経験豊富な兵士たちの多くは、復活したリトアニア共和国の軍隊の中核を担いました。
Ir laisvė, ir civilizacija Japonijoj visgi aukščiau stovi negu Maskolijoj; [...] Šiuom kartu Europos tautoms didesnis pavojus gali grėsti nuo per daug susidrūtinusios Maskolijos negu nuo Japonijos. Todėl ir kare daugiau bus simpatizuojančių su Japonija negu su Maskolija.– „Lietuva“, 1904 m. sausio 15 d.
日本における自由と文明の方がムスコヴィーにおけるそれらよりも発展している。(中略)この場合、ヨーロッパ諸国にとってより大きな脅威となるのは、日本よりも強すぎるムスコヴィーであろう。したがって、戦争になれば、ムスコヴィーよりも日本に同情する人の方が多くなるだろう。– 『Lietuva(リトアニア)』1904年1月15日付
20世紀のリトアニア・ディアスポラ新聞には、日本を肯定的かつ支持する表現が見られる傾向にありました。日本は先進国で、東方で帝政ロシアに対抗すべく発展してきたとも表現されていました。
(新聞「Lietuva」と「Vilniaus žinios」からの抜粋、1904年~1905年)
リトアニア人の多くが、ラトビア人、エストニア人、フィンランド人と共に、日露戦争の終結を決定づけたバルチック艦隊の船員として徴用されていました。この艦隊は、ラトビアのリエパヤ港を出港し、アフリカ周辺へ迂回し(スエズ運河を経由しながら)日本海へと出ました。1905年5月28日、バルチック艦隊は対馬沖海戦で敗戦を喫しました。これが敗北を決定づけました。この戦闘で21隻のロシア船が沈められ、約5000人の船員が死亡し、多数のリトアニア人を含む船員6000人が捕虜となりました。
(Mary Evans Picture Library, Hulton Archive)
小島亮によれば、日露戦争において、明石元二郎男爵率いる日本の秘密情報部は、情報だけでなく、偏ったイメージの拡散に大きな影響を与えたといいます。ロシア帝国に含まれる国々や反対運動が独立思想を促進して、ロシアを不安定にさせるだろうという目論見がありました。そのような文脈の中で、聞き馴染みのないリトアニアの名前が、日本の新聞に登場することが増えていきました。
(明石元二郎の肖像)
日本のリトアニア人捕虜
日本軍が次々と勝利を収め、相手の部隊が大きく瓦解していく中、捕虜の数は次第に増えていきました。捕虜は全部で約8万人にのぼりました。日本軍は彼らを国内の29ヶ所の捕虜収容所に送り込みました。その中でも最大だったのが大阪の浜寺の収容所でした。
(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター図書室)
敵である捕虜に対しても、日本人は1899年のハーグ条約の原則を忠実に守り、地元の人々は温かいもてなしを見せました。これがきっかけとなり、日本は国際社会から尊敬され、捕虜たちも日本人に対して良い印象を持つことになりました。
リトアニア人捕虜がリトアニア・ディアスポラの新聞社に送ったメッセージはどれも非常に短く、そのほとんどが、新聞社への感謝の言葉や、皆が生きていて健康であること、あるいは回復したという喜びを伝えるものでした。しかし、検閲があったため、詳細を書き綴ることが禁止されていた可能性もあります。
(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター図書室)
松山(愛媛県)の捕虜収容所に多くのリトアニア人がいたことが、ディアスポラの新聞に掲載された内容からわかっています。この収容所が拡大された頃には、約6000人の捕虜がいた計算になります。捕虜の多くは、ポーランド出身者とリトアニア出身者でした。これは、ポーランド解放運動の指導者ユゼフ・ピウスツキに起因するものであると推測されます。1904年、彼は日本を訪れ、ロシア軍を脱走したポーランド兵に関する特例要件について、日本政府と協定を結びました。
松山は、日本にある29の収容所の中で最も優れた捕虜収容所とされ、捕虜には便利な生活環境、医療、特別な食事までもが提供されていました。兵士たちは自由に街を歩くことができ、買い物をしたり、海辺に行ったりすることもできました。98人の捕虜が戦傷で亡くなり、この土地に埋葬されました。現在も松山にはよく整備された状態のロシア兵墓地があり、墓石にはリトアニア人の苗字も見られます。
(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター図書室)
Mums, kareiviams, jos (medicinos sesutės) yra tarsi angelai, tarsi atgaiva. Jų rūpestis pacientams - kaip tikrų motinų. Dieną ir naktį triūsdamos aplinkui, jos nevengia rūpintis žaizdotais kariais. Nesu matęs susiraukusio veido Jos tai daro ne tik iš pareigos, bet ir iš didžiulės atjautos karo aukoms.– iš F. Kupczinsky atsiminimų
「彼女たちは、われわれ兵士にとって天使であり、慰めだ、ということである。患者の世話は肉親同様で、昼夜仕事に追われながらも、負傷兵のために労をいとわない。 嫌な顔をしたのを見たことがない(中略)これは義務感もさることながら、戦争がもたらした犠牲に対する憐憫の情からでもある」– F・クプチンスキー
ステポナス・カイリースの伝記
ステポナス・カイリース(1879〜1964年)は、リトアニア評議会(評議会は1918年2月16日の法令に署名した)のメンバーの一人で、カウナスの給水システムを開発した才能あるエンジニアであり、ユダヤ人の救済者、社会民主党の創設者の一人、行動的な政治家であるなど、数多くの理由から、リトアニアではよく知られた人物です。しかし、忘れられがちな彼の一面があります。ステポナス・カイリースは、1906年にリトアニア人として初めて日本についての本を書いた人物でもあるのです。
カイリースは日露戦争で日本が勝利したことに触発されました。彼は日本を訪れたことはありませんでしたが、27歳の時にサンクトペテルブルクで日本関連の資料の収集を行い、それをまとめあげました。日本は、国家が信念を持ち、力の結束させ、覚悟を決めれば、小さな国家でも遥かに強い国に打ち勝つことができるという見本となりました。日本は、S・カイリースがリトアニア独立を目指すようになるきっかけだったのです。
カイリースが直接日本の話題に再び触れることはありませんでしたが、彼が書籍に記した知識はすべて、リトアニア憲法とリトアニア共和国の独立を確立するために活用されました。
(日付をクリックすると詳細が表示されます)
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S・カイリースは農家の大家族のもとに生まれました。実は本当の名前はトゥマソニスでしたが、洗礼の書類に間違いがあったせいでカイリースという名前になりました。
(故郷の記念碑)
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クルクリェイ町の小学校を卒業後、S・カイリースはパランガへ引っ越しました。
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ギムナジウムでは、リトアニア語を学ぶグループを結成したり、正教礼拝の強制参加に反対するなど、精力的な活動を行いました。
(左:パランガ・プロギムナジウム時代、右:ギムナジウムを卒業した後 S. Kairys Foundation archives)
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ステポナス・カイリースはサンクトペテルブルクで、断続的に生活を送りながら学業を続けます。そして技術研究所を優秀な成績で卒業し、エンジニアとなりました。
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1944年までこの党のリーダーの一人として活動します。1904年には、カイリース主導の元、リトアニアの独立を目指す社会民主主義マニフェストが作られました。
(リトアニア立憲議会における社会民主党の会派(1921年)、前列右から3番目がステポナス・カイリース)
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日本がロシア帝国を破ったことに感服し、サンクトペテルブルクやリトアニアの図書館で資料を収集・体系化し、書籍としてまとめました。それらの本を「おじさん(原語:Dėdė)」という名前で出版しました。
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1908年からロシア国内を旅したカイリースは、ペトラス・ヴィレイシスと共に橋の建設を行いました。その後、ヴィリニュス市役所に勤務し、上下水道事業の担当者となりました。
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2月16日、リトアニアの独立が宣言され、ステポナス・カイリースは最も精力的なリトアニア建国者の一人となりました。同年、彼はカウナスに移り住み、しばらくして、カウナスがリトアニアの首都となることが発表されました。
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カイリースは1926年までリトアニアのすべての議会で選出され、社会民主党の活動だけでなく、政治活動にも積極的に参加しました。
(記念碑 カウナス、ドネライティス通り)
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彼はカウナスをはじめとするリトアニアの町の上下水道開発計画を進めていきました。1938年まで水道局長を勤め上げ、ヴィータウタス・マグヌス大学で講義も行っていました。
(S.Kairys Foundation archive)
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カイリースは妻と共に、ユダヤ人の少女アヌセ・ケイルソナイテを助けました。2005年、二人は死後に「諸国民の中の正義の人」として表彰されました。
(S.Kairys Foundation archive)
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ソ連の占領が始まり、彼はドイツへ亡命しました。
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アメリカで生活を送る傍ら、人々にリトアニア占領を認めないよう呼びかけ続けました。
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カイリースはシカゴのリトアニア人墓地に埋葬されました。リトアニアの独立回復後の1996年に、彼の遺骨はカウナスのペトラシューナイ墓地に改めて埋葬されました。
(シカゴの墓石)
ステポナス・カイリースの著書に見る日本
カイリースは「おじさん(原語:Dėdė)」と名乗り、日本についての本を書いていました。書籍は1906年に出版され、人々の間で大きな注目を集めました。その本の中で、カイリースは主に、この小さな国家がなぜ強大なロシアに勝つことができたのかについて論じています。彼はその答えを求め、日本の地理、社会、歴史を研究しました。
『日本の過去と現在(原題 ``Japonija seniau ir dabar``)』
『今、日本人はどのように生きるか?(原題 ``Kaip japonai gyvena dabar``)』
この本の中でカイリースは、道路、農業、商工業、教育、宗教など、日本の生活における様々な分野について書いています。社会民主主義者である彼は、労働者階級の問題に着目しました。カイリースは、日本人が革新的なものを理解し、それに適応し、利用する能力に感心しています。
Reikia apskritai pasakyti, kad reta pasaulio tauta temokėjo taip giliai atjausti mokslo naudingumą, ir jokia kita negalėjo taip greitai ir gerai perimti ir pritaikyti mokslo išradimų prie savo gyvenimo reikalų.– 33 psl.
Jeigu japonai per tris dešimtis metų suspėjo tiek daug naujų daiktų perimti iš Europos, galima spėti, kad ir toliau jie neapsileis. Ir gal už šimto ar kito metų Japonija virs Tolimųjų Rytų Anglija.– 9 psl.
一般に、科学の有用性を真に理解している国が多いわけではない中で、この国だけが科学の革新というものをすばやく理解し、それをその国の生活様式に適合させることができているという点に注目すべきである。– p.33
日本人は30年間でヨーロッパからやって来た多くのものに適応し、今後もそうしていくだろうと推測される。そして、百年後、あるいはもっと先に、日本は極東のイギリスとなっているかもしれない。– p.9
『日本人の憲法 (原題 ``Japonų konstitucija``)』
本書は、3冊の中で最も成熟した批判的な本だと言えます。日本人の性格、日本的な習慣、決まり事が分析されています。また、1891年に憲法が制定されるまでの過程と、それが日本の生活をどのように変えたかを注意深く観察しています。本書の大部分は日露戦争に関する記述に費やされており、なぜ日本が遥かに強い敵に打ち勝てたのかという疑問に対する答えを探究する内容です。
Užtat kuomet atėjo laikas kovon stoti, japonai buvo apsiginklavę nuo galvos iki kojų. Jie drąsiai užkabino priešą, visai nepasiruošusį, tamsų, vedamą drutų, bet nesumaningų perdėtinių. Jie parodė darbu ir mūsų kareiviams, ir caro vyriausybei, kad laisvi ir šviesūs žmonės gali paimti viršų ant tamsių vergų, nors jų būtų ir tris kartus daugiau.– 31 psl.
いざ戦争に参加する時には、日本人は頭のてっぺんからつま先まで武装した。彼らが勇敢に挑んだ相手は、備えることも学ぶこともせず、強いだけの無知な権力者に付き従っている敵だった。彼らの活躍が我が国の兵士とロシア帝国に証明してみせたのは、自由で聡明な人々というのは、例え相手がその3倍の数であろうが、無知な奴隷に打ち勝つことができるということだった。– p.31
書誌情報
- Railienė, Birutė. 2012. Pirmosios žinios apie Japoniją lietuviškoje spaudoje. Stepono Kairio trilogija (1906 m.). Rytų Azijos studijos Lietuvoje (sud. Aurelijus Zykas). Kaunas: Vytauto Didžiojo Universiteto leidykla, p. 93-102.
- 渡辺克義編 『ポーランドを知るための60章』 明石書店、2001年、ISBN 4750314633
- 松本照男 日本に親近感を持つポーランド人 POLE 82 (2014.5)
- 高石市教育委員会/編集 2007 濱寺ロシア人俘虜収容所資料集
- 堀田昇吾編 ロシア兵捕虜、厚遇の跡 日露戦争時の大阪に収容所 日本経済新聞 2020年9月3日